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幅25m、奥行き10mの長方形に白砂を敷き詰め、15個の石を配した古山水の平庭で、白砂は水を、石組みは山容渓流を表し三方を築地塀で囲み樹木を借景にしています。
本当は15個あるはずなのに、どの角度から見ても14個しか見えな絶妙な石の配置になっています。
当日も時間を掛けて石を15個探して見ましたが・・・発見できず。(笑)
この石庭の15の石の配列が、虎が子を連れて川を渡るように見えることから、別名「虎の子渡し」の庭と呼ばれています。
また、白砂を大海、石を島、あるいは白雲と秀峰と見ることもできると言われています。
そして見事な庭園を見終わった後も、お寺の南側の陽当りの良い辺りも、回遊式庭園となっており、案内看板の矢印通り進むと、じっくり鑑賞できる作りとなっています。
まず真田隊は越前松平隊を蹴散らし、毛利隊らに手一杯であった徳川勢の隙を突き家康本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らしました。
3度も本陣の旗本隊を蹴散らされた家康公は、あまりの真田隊の凄まじさに自害を二度も覚悟した程だったといいます。
真田幸村公の闘いを薩摩の島津家久公はこう言い残しています。
「五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由。徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候。」
「真田は日本一の兵(つわもの)。真田の奇策は幾千百。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか。女も童もその名を聞きて、その美を知る。彼はそこに現れここに隠れ、火を転じて戦った。前にいるかと思えば後ろにいる。真田は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し。合戦場において討死。古今これなき大手柄。」
以下同時代の人々の記録です。
細川忠興
「左衛門佐、合戦場において討ち死に。古今これなき大手柄。」
「大坂御陣覚書」
真田は味方の諸軍乱走るも機を屈せず、魚鱗に連なりて駆け破り、虎韜に別れては追い靡き、蜘蛛手十文字に掛け破らんと、馬の鼻を双べて駆け入り、其の速かなるは疾雷の耳を掩ふに及ばざるが如し。
「翁草」
真田は、千載人口に残る奇策幾千百ぞや。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚の名を得ず、徳川の毒虫なりと世に沙汰せり、当世の英雄真田を非ずして誰ぞや。絶等離倫、一世の人物、今にいたりて女も童もその名を聞きてその美を知る。
「北川覚書」
車軸を流す雨の如く候へども、真田が備、一人も散らず真丸に堅り、とてものがれぬ処にて候間。一寸も後をみせ候なと、皆々念仏を唱へ、死狂に懸り候
「元和先鋒録」
真田左衛門合戦の様子奇怪の節多し、此の日初めは茶臼山に出、夫より平野口に伏兵を引廻し、又岡山に出て戦ふ。後に天王寺表に討死す。其の往来抜け道の跡、今に相残り候旨、実にしやかに書き記し候。
「山下秘録」
家康卿の御旗本さして、一文字にうちこむ、家康卿御馬印臥せさすること。異国は知らず、日本にはためし少なき勇士なり、ふしぎなる弓取なり真田備居侍を一人も残さず討死させる也。合戦終わりて後に、真田下知を知りたる者、天下に是なし。一所に討死にせるなり。
「言緒卿記」(公家・山科言緒の日記)
天王寺にて度サナタ(真田)武辺(勇敢に戦った)、其後討死。
外国の方はあまり興味の無い情報かも知れませんが、今も変わらない鏡容池と石庭が、昔のことを思い出すキッカケ作りになるかも知れませんね。
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