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幕末の京都は政治の中心地となり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の過激派志士が集まり、治安が悪化しました。
従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、最高治安機関として京都守護職を新設し、会津藩主の松平容保(まつだいら かたもり)を就任させました。
その配下で活動した準軍事的組織が新選組です。
同様の組織に京都見廻組がありました。
ただし、新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という非正規組織であり、京都見廻組は幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織でした。
隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えました。
任務は、京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧などでした。
その一方で、商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど凄惨な内部抗争を繰り返しました。
慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられ、翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従って戦い、敗戦に伴い散り散りになり解散しました。
まずは新選組隊士達のご冥福をお祈りする為にお墓参りを行います。
行き先は「光縁寺」です。
正式には満月山普照院光縁寺と称し浄土宗のお寺です。
光縁寺
所在地 〒600−8389 京都市下京区綾小路通大宮西入四条大宮町37番地
電話番号 075−811−0883
光縁寺は知恩院の末寺で創建は慶長18年(1613年)頃で、本堂や山門は天明の大火で焼失し、文政2年(1819年)に本堂が再建され、山門は弘化3年(1846年)に再建されて現在に至っています。
本堂の中央に本尊の阿弥陀如来を、向かって右には観音菩薩、左には勢至菩薩、右脇に善導大師、法然上人を祀っておられます。
下の写真が光縁寺です。
山門横には「新選組之墓」の石碑があります。
この光縁寺と新選組との関係ですが、門前近くに新選組の馬小屋があり、毎日門前を隊士達が往来し、その中には当時副長の山南敬介もいました。
山門を見上げれば瓦に「丸に右離れ三つ葉立葵」の山南家と同じ家紋が目に入りました。
下が当時の山南や隊士達が見たまま現存する山門とその瓦です。
瓦の紋がハッキリ分かります。
当時の住職は二十二世良誉上人で年齢も山南と同じ歳でした。
この時代、筵(むしろ)に巻かれた死体がよく門前に放置されていたそうです。
それは葬式を出せない困窮した人達が、この寺の住職がそのような死人であっても分け隔てなく弔っていたのを知っていました。
この住職の良誉上人と山南敬介との間に親交が生まれたのは当然の成り行きかも知れない。
その山南の紹介で、新選組の屯所で切腹した隊士達、3人目には山南自身、その後多くの隊士達関係者が良誉上人に弔われ埋葬されることになりました。
墓参時間は下の写真の通りです。
見物や見学はお断りされておられます。
この本堂も新選組隊士達が見た往時のままの姿で現存してます。
本堂の扁額に「満月山」と刻まれていますね。
この本堂正面向かって右側を回り込んだ本堂裏が新選組隊士達の墓所です。
墓所には山南敬助、河合耆三郎、柴田彦三郎、施山多喜人、石川三郎、大石造酒蔵、松原忠司、桜井勇之進、小川信太郎、市橋鎌吉、田内知、田中寅三、加藤羆、左側面に矢口健一郎、佐野七五三之助、中村五郎、茨木司、伊東甲子太郎、富川十郎、沖田氏縁者のお墓など新選組隊士のお墓があります。
下の写真、向かって右側が山南敬介のお墓です。
新選組結成当時は副長だった山南敬介は文武両道の人としても知られ、新選組のスポンサーだった小島鹿之助は「武人にして文あり」と評し、新選組に対する酷評で知られる西本願寺の西村兼文も「壬生浪士始末記で山南を「少しく時理の弁えある者(少しは物事の筋道がわかる人)」と好評しています。
その山南が元治2年(1865年)2月「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませました。
新選組の局中法度の隊規「局ヲ脱スルヲ許サズ」・・・脱走は死罪。
近藤勇と土方歳三の指示で、山南と大変仲の良かった沖田総司がすぐに追手として差し向けられ、大津の宿で自ら沖田に声を掛けて捕縛されました。
新選組屯所(旧前川邸)にて切腹。(後述)
享年32歳。
近藤の腹では仲の良かった沖田なら逃がすだろうという目論見と、土方の仲が良かった沖田なら山南が油断もし、抵抗もしないだろうという読みがあったとも言われていますが、真実は何処に・・・。
上のお墓の横には沖田総司所縁の女性だろうといわれているお墓があります。
壬生周辺では過去に「沖田姓」を名乗るお家が無いため、沖田総司の身内の誰かだろうと言われていますが、この辺りの謎が新選組随一の剣の天才であり、現在も絶大な人気を誇る薄幸の剣士の謂れでもあります。
この辺りで沖田総司に少し触れたいと思います。
諸説ありますが・・・
天保15年(1844年)〜 慶応4年5月30日(1868年7月19日)
享年24歳。
沖田総司には剣豪ひしめく新選組の中でも最精鋭の一番隊隊長を、常に重要な任務をこなしたといわれています。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件においても近藤らと共に最初に池田屋に踏み込みました。
沖田家累代墓碑には天然理心流の他、北辰一刀流の免許皆伝を得ていた旨も記されている。
永倉新八は後年、「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」と語り、弟子に「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」とも語ったといわれる。
実際、竹刀をとっては近藤の一段も二段も上を行ったという。
沖田の指導を受けた者によれば、「荒っぽくて、すぐ怒る」といい、稽古は相当に厳しかったらしく、師範の近藤より恐れられていた。
「刀で斬るな!体で斬れ!」と教えていたという言い伝えもある。
沖田の剣技で有名なのが「三段突き」であるが、史実であるかは不明。
平正眼(天然理心流では「平晴眼」と書く)の構えから踏み込みの足音が一度しか鳴らないのに、その間に3発の突きを繰り出した(即ち目にも止まらぬ速さで、相手は一突きもらったと思った瞬間、既に三度突かれていた)という伝説である。
佐藤彦五郎の長男・佐藤俊宣の談話によれば、沖田の剣術の形は師匠の近藤そっくりで、掛け声までがよく似た細い甲高い声であったという。
ただ、太刀先がやや下がり気味で前のめりで、腹を少し突き出し気味の平正眼をとる近藤とはやや異なる構えを取る癖があったとされる。
新選組以外からの声もある。
小島鹿之助は新選組結成前の文久2年(1862年)7月に、「この人剣術は、晩年必ず名人に至るべき人なり」と述べており、新選組に批判的だった西村兼文も、「近藤秘蔵の部下にして、局中第一等の剣客なり」、「天才的剣法者」と言い、さらに新選組と敵対していた阿部十郎は、「沖田総司、是がマァ、近藤の一弟子でなかなか能くつかいました」、「沖田総司、大石鍬次郎という若者は、ただ腕が利くだけで、剣術などはよくつかいました」、「大石鍬次郎、沖田総司、井上、是らは無闇に人を斬殺致しますので」と語るなど、外部からもその腕前が高く評価されていたことが窺える。
凄腕の一番隊組長としての顔とは裏腹に、当の本人はいつも冗談を言っては笑っていた陽気な人物であったようである。
屯所界隈の子供達ともよく遊んであげていたようで、作家の司馬遼太郎は新選組を題材とした作品を執筆する際、幼い頃に沖田に遊んでもらったという老婆を取材している(取材が1960年前後とすると、明治維新が1868年なので、かなり高齢ではあるものの実際の沖田総司を目にした人々が生きていたことになる)。
近藤・土方など新選組についての酷評で知られる西村兼文ですら、山南と並び沖田についても批判を残していない。
これは西村が山南と沖田には悪意を持っていなかったことの表れと見られ、従って沖田は新選組に表立って敵対した者以外には人当たりの良い好人物であったと考えられています。
下の写真は帰りがけに覗いたお寺の本堂内に書かれていた昔の平安京の図です。
新選組が屯所を置いた京都の西端の壬生村周辺の位置関係も良く分かります。
新選組は当初尊皇攘夷を目的として結成され、天誅と称して洛中にて不穏な動きを見せる不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧を目的としていた為、将軍がいる二条城にも存外近く、見回りにも出掛けやすいこの壬生村が当初屯所に選ばれました。
後に西本願寺境内に屯所は移転しています。
お寺を出て向かい側が光林寺です。
ここに頼山陽の遺髪塔があります。
石碑が建っています。
頼山陽とは・・・
頼 山陽は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人です。
主著に「日本外史」があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなりました。
司馬遷の『史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻から成るが、頼山陽はこれを模倣して「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の著述構想を立てている。
「史記」にあっては真骨頂というべき「列伝」に該当するものがないが前記の十三世家にあたる『日本外史』(全二十二巻)が列伝体で叙せられ、「史記」の「列伝」を兼ねたものと見ることもできる。
「日本外史」は武家の時代史であるが、簡明な叙述であり、情熱的な文章であった為に広く愛読されたが、参考史料として軍記物語なども用いているため、歴史的事実に忠実であるとは言いがたい記事も散見する。
言い換えれば、史伝小説の源流の一つとも言い得る。
ただし簡明であるがゆえに巷間で広く読まれ、幕末・明治維新から、昭和戦前期まで、広く影響を与えた。
なお山陽は詩吟・剣舞でも馴染み深い「鞭声粛粛夜河を過る〜」で始まる川中島の戦いを描いた漢詩『題不識庵撃機山図』の作者としても有名。
同作品は死後刊行された「山陽詩鈔」(全8巻)に収められている。
ほか、古代から織豊時代までの歴史事件を歌謡風に詠じた「日本楽府」(全1巻)がある。同書の第一は下記引用の詩に始まるが、易姓革命による秦、漢に代表される中華王朝の傾きに対比して、本朝の皇統の一貫に基づく国体の精華を強調している。
川中島よりも歴史ファンの方にとってはこちらの方が良くご存知かも知れません
「吾敵正在本能寺」(敵は本能寺にあり)。
そして何故ここで頼山陽が出てくるかと言えば、新選組の局長の近藤勇が頼山陽の熱烈なファンだからです。
信奉者と言っていいかも知れません。
好きが高じて書体も完全に真似る程。(笑)
下が頼山陽の書状です。
下の写真の屏風に仕立てあげられているのが近藤勇の書です。
書体が似てますかね?(笑)
そして下の道路付近が新選組の馬小屋があったといわれている場所です。
光縁寺から目と鼻の先、数歩の距離です。
なるほど、この位置から馬に乗って洛中を見回りに行けば、光縁寺の前を毎日通りますね。
この旧壬生村付近は現在の道幅も下の写真の様に狭く、車一台がようやく通れる位です。
そのせいか、新選組関連の施設が今も多く現存し、新選組ファンの方にとっては一種「聖地」の趣があります。
幕末や明治維新前後の時代は、以降勝者である官軍方の薩長にとって賊軍である新選組やその隊士達は顧みられることの無い時代。
しかし、昨今はテレビ時代劇や映画演劇、書籍などで、新選組の歴史があらためて脚光を浴びています。
新選組の誕生には歴史的必然性があり、会津藩との関わりは宿命的と言えるものがあります。
下の写真が会津藩第9代藩主松平容保です。
幕末の会津松平藩の人たちは名君として知られていました。
藩祖・保科正之(徳川家光の弟)の遺訓を固く守り、最後まで徳川幕府に忠誠を尽くした人たちでありました。
会津藩は、藩主松平容保公が京都守護職を拝命するにあたり、徳川三代将軍家光の異母弟である藩祖保科正之公の遺訓がその運命を大きく変えることとなります。
「大君の義、一心大切に、忠勤を存すべし。列国の例をもって自らを処るべからず。もしニ心を懐かば、即ちわが子孫にあらず。面々決して従うべからず。」
この家訓第一条の「徳川家への忠誠」が、いかなる諸事情があろうとも徳川家へ「忠義」を尽くす会津藩の根源であり、第9代藩主松平容保もこれを貫こうとしました。
一方、多摩の郷士であった近藤勇ら「壬生浪士組」の本意は、武闘行為ではなく「尽忠報国の誠」を果たすことにあった。
また、彼らは出自が郷士であるだけに武士として士道に生き、軟化した武士達よりも武士らしい生き方を望みました。
そして彼らが武士(もののふ)として理想としたものは、連綿と受け継がれた会津藩の士道「忠義」でありました。
この宿命的で至純な誠心から出た「義」によって会津藩と壬生浪士組は幕末の京都で結ばれ、会津藩御預として「新選組」が誕生することとなります。
彼らは、王城の護衛者として粉骨砕身、ともに働き、薩長土肥の画策による「大政奉還」という徳川家への理不尽な行為に抵抗し、会津・函館へと続く戊辰戦争へ突入していくのであるが、将軍徳川慶喜が屈服し、敗戦に継ぐ敗戦の身にありながらもなお、彼らは士道に殉じることで、その筋を通し「忠義」を尽くしました。
そしてこのブログの冒頭にも書きましたが、幕末の京都は政治の中心地となり、当時は諸藩から脱藩した尊王攘夷・討幕運動の過激派志士達が続々と入洛し、治安が悪化し、天誅と称する血なまぐさい暗殺事件や人斬り事件が161件も発生する無法地帯と化していたのも事実です。
京都所司代や東西奉行所の警察力では治安維持が不能で、松平容保がその重職を担い、その様な事件を実際に取り締まるのが新選組の役目で役割だった訳です。
しかし京の町衆達が期待した通り、治安が治まったと思ったのも束の間。
上記の様な新選組の忠義や士道、働きが評価される一方、壬生村屯所時代の新選組の別名は「壬生狼」。
新選組結成当時は、幕府方の忠臣気取りで尊王攘夷派の志士達を見境なく斬り捨てるだけでなく、祇園や壬生の屯所近くの島原の花街でドンチャン騒ぎをし、豪商には押しかけ無理矢理借金をするなど、京の町衆の生活を脅かす振る舞いに、壬生狼とは「壬生の狼」との意味もありますが、新選組浪士達の身なりの貧しさから、「みぼろ」(壬生浪=みぶろ・みぶろう)と密かにさげすみ眉をひそめて揶揄してというエピソードも。
この後新選組は、京の町衆や尊皇攘夷派の志士達も心底震え上がる、歴史的大事件を引き起こします。
この後の話は次回の舞台へ移ります。