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宗派は、南都六宗の一つである律宗に属している。 昭和37年(1962)、本堂を全焼し本尊地蔵菩薩像を含む多数の寺宝を失いました。
しかし新しい本尊延命地蔵菩薩立像(重要文化財)が、律宗 総本山唐招提寺から移されて、昭和45年(1970)に本堂の落慶法要が行われた。
かわらけをつぎつぎに豪快に落とす壬生狂言でも有名です。
今でも広い境内ですが、この境内を新選組隊士達は、剣術の稽古や砲術等の兵法調練の場として使っていました。
一番隊隊長の沖田総司は、この壬生寺で鬼ごっこをしたり、かくれんぼをして子供達とよく遊んだという逸話が残ります。
下の写真は千体仏塔です。
平成元年(1988)に建立された。
この塔の石仏は明治時代、京都市の区画整理の際に各地から集められたものです。
室町時代からの阿弥陀如来像や地蔵菩薩像など丁度1000体が、ミャンマーのパゴダに似て円錐形に安置されています。
境内は今も広々としており、京都の町中にあって喧騒からも少し距離を置ける静けさです。
そして当時境内には土壇場も設けられていたとの事。
土壇場とは現在でも、どうにもならない場面や最後の最終決断を下す際に用いられる用語ですが、当時は土を盛って築いた場所を意味する用語として江戸時代に使われていました。
江戸時代に斬首の刑を執行する際に罪人を土壇場に横たえたことから斬首刑の刑場の意味です。
罪人に限らず、業物の刀を試し切りする際にも、罪人の身体を使って試す為に、最後の最後に行き着く場所と言う意味もあります。
壬生寺本殿です。
新選組所縁の地をあって若い方の参拝の姿も目立ちます。
そして壬生寺境内で忘れてはならないのが壬生塚です。
壬生寺の歴代住持が新選組隊士の供養に為に建立された供養塔があります。
新選組と言えば有名な「誠」の一文字。
幕末、長年犬猿の仲だった薩摩と土州が秘密裏に薩長同盟を結ばなければ、これだけ時代が大転換大旋回を起こしえず、当時最強の洋式軍隊を保持しながら薩長土と距離を置き、肥前の妖怪と呼ばれた肥前藩の鍋島閑臾公の土壇場の同盟入りも無かったかも知れません。
まさか新選組も幕府がその強大な権力を朝廷に返還する大政奉還を実際にやるとは考えもしなかったでしょう。
この大政奉還により、薩長土肥の雄藩は一夜にして官軍になり、新選組は賊軍の汚名を被せられることになりました。
しかし、「誠」の一文字を旗印にした新選組隊士達の奮戦はまだ続きます。
下の写真、壬生塚の中には放生池と呼ばれる池があります。
この池にまつわるエピソードを一つ。
ある夜、芹沢鴨、近藤勇、山南敬介、沖田総司、永倉新八、斎藤一、平山五郎、野口健司、井上源三郎、島田魁の一行は京屋の小舟で夕涼みに出掛けた。
ところが斎藤一が途中で腹痛を起こしたので急遽川岸に船を付けた。
そして予定を変えて其処から北新地の住吉楼に行こうとした。
しかし、途中蜆橋で擦れ違い様力士が暴言を吐いたので、気の短い芹沢が早くも抜刀して決闘しました。
本来なら肉が厚くて刃が立たない力士の体を一刀両断に切り捨てた。
此の時彼らは油断して稽古着に脇差という軽装であった。
この為に力士の侮りを受けたのだがその脇差で力士を両断した芹沢の剛腕は凄まじい。
その後、一行は北新地に到着し斎藤の介抱を始めた。
所が、此処に先程切り捨てられた力士の仲間達が手に手に八角棒を持って乗り込んできたので、管弦の巷は一転して剣戟の響きに包まれることになった。
新選組は勝手の違う相手に戸惑いつつも力戦した。
そして、多勢に無勢、慣れない土地での夜間戦闘にも関わらず、新選組は無傷でこの場を切り抜けた。
一方、力士方は十四名が負傷、更に三名は深手(その内一名は翌朝死亡)を負った。
以降、力士は新選組を恐れ敬うようになった。
それどころか、事件の収拾に当たった近藤・土方とは却って意気投合し、後には新選組の肝煎りで興行が行われることもあった。
その際もてなしの食材に窮した新選組隊士達が、本来殺生禁止のはずのこの池より鯉やすっぽんをすくい上げて、力士達に振る舞ったそうです。
此の興行は、新選組の財政に大きく貢献した物と思われますが、こうした商業主義的経営がまた、志士を以て任ずる芹沢の癇に障ったらしいとも言われています。
大勢の隊士達が祀られています。
幕末最強の剣客集団を創り上げた近藤勇。
しかし江戸では徳川300年の安逸の時代に、旗本八万騎と呼ばれた家臣達は幕府に対する忠誠心もその武力も完全に失っていました。
その中で誰よりも武士らしく振る舞おうとした新選組の隊士達と近藤。
余談ですが、徳川幕府が武力討伐の軍を起こす際には、譜代の大名からは井伊の赤備えで有名な彦根の井伊藩、外様大名では太閤豊臣秀吉の恩顧大名で、かつ外様大名でありながら別格譜代の扱いを受けた藤堂高虎を藩祖とする津の藤堂藩が先鋒を受け持つことが慣わしでした。
しかし、桜田門外の変では大老の井伊直弼の大名行列が、登城途中で志士18名に白昼堂々切り込みを受けて暗殺されるという事態に。
藤堂藩はといえば、慶応4年(1868年)1月の京都の鳥羽・伏見の戦いでは当初は幕府側でしたが、山崎高浜砲台の津藩守備隊が真っ先に幕軍を裏切って突如官軍側を支援し始め、対岸の幕軍砲台を砲撃するなど官軍の勝利に大きく貢献することになりました。
しかし幕府側の将兵からは突然の裏切り行為であり「その行い、藩祖(高虎)に似たり」とそしられました。
こんな状態を見て近藤は何を思っていたのでしょうね。
その近藤も幕府の命を受け、敗色濃厚な幕府軍を支えながら各地を転戦。
下総国流山に屯集するも新政府軍に包囲され、土方歳三が制止するのを振り切って越谷の政府軍本営に出頭します。
しかし、新選組隊士や近藤達に志士の同士達を数多く殺されてきた薩摩や土州、長州藩は新選組を憎悪しています。
最後は中山道板橋宿近くの板橋刑場で斬首されます。
武士の名誉の死に方は切腹です。
その切腹も許されず、その首は京都の三条河原に梟首されました。
享年35歳。
芹沢鴨のお墓もあります。
最近お墓が老朽化した為、新しいお墓を建て替えたところ、墓石の字体が昔と違うと往時を知る古老の方達の意見が多数寄せられた為、再度昔のままの字体でお墓を再現されたそうです。
一方最後の新選組隊士とそれを率いる土方歳三は各地を転戦しながら幕末最後の戦いの函館五稜郭の戦いに臨みます。
土方は副長に徹し、新選組組織を作り上げることに生き甲斐を感じ、育ててきたと思える生粋の軍人です。
行く末は同じ多摩の同郷の近藤を局長に、そして大名にと思っていました。
その近藤評は時勢の勢いのある時は良いが、一旦落ち目になると堪え性がないというものです。
そこで土方は鬼の副長として隊規を厳格にし、新選組の武名を上げることに専念してきました。
当時の逸話では、京の街を歩いていて土方が向こうから歩いてくると、パッと蜘蛛の子を散らすように志士達が逃げ散ったと言われています。
その戦い振りも鬼神のようだったとも。
鬼の土方の所以です。
土方も官軍との実戦を経て、洋式装備の有効性にいち早く気づき、隊の装備をピケット銃や洋式砲で一新することを実践していました。
その上で切所の際には凄まじい突撃と斬撃を繰り返します。
新政府軍に「弾が避けて飛んで行く」と言わしめる程の働き振りだったとか。
銃弾が飛び交う近代戦ではあり得ない度胸です。
率いる兵達の間に土方がいる限り負けることは無いという不敗神話も生まれます。
しかし遂に土方歳三にも最後が訪れます。
箱館の五稜郭での戦いで、幕府軍の最終的な敗北を悟った土方は、最後に刀を振りかざし馬上突撃を敢行し戦死したとも伝わっています。
辞世の句が残っています。
「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照(てる)かと」
享年35歳。
現存する唯一の写真がこれです。
ちなみに当時箱館戦争を戦った他の幕府軍幹部達は戦後新政府軍に許されて官職を得ます。
当時どれほど多くの志士達や日本人の血が流されたのか現在からは伺うことも出来ませんが、その後の明治の日本人の世界的な躍進に繋がることは間違いないでしょう。
今回坂本龍馬には触れませんでしたが、新選組の好敵手として様々な志士達が存在します。
機会があれば取り上げてみたいと思います。
そして新選組の存在も結果、日本と日本人を進化させる礎になったのかも知れませんね。
今すぐ善悪の歴史の判断を下すには、数多くの未解明な部分が残っていると感じるのは私だけでしょうか?
隊士一人一人の人生にまだまだ興味が尽きないです。